発送は順次させていただいております!
こんにちは☆
出荷が止まりませんで、結局こんなになってしまっておりまして、ご連絡ができずに申し訳ございませんm(__)m
同梱処理等はすんでおりますが、誠に勝手ながらお便りは発送時にさせていただいております。
こちらが5分の1くらいの量でございまして、まだまだお待ちいただいている状態です。
やっぱり福袋はどうしても考えてしまいまして、なかなか進みませんでした。
もう来年はできないかもしれませんが、今は、今できることを精一杯やらせていただこうと思っております。
申し訳ないのですが、もう少々お待ち頂けましたら幸いですm(__)m
また、神様のブログにつきましてご要望をありがとうございます。
何度もしつこいようなのですが、そんなに皆様がそういうことを知りたいとは思っておりませんでした。
こちらの記事は限定非公開として特定の方だけにご紹介をしていたブログでございましたが、ご要望が多いため公開をさせていただくことにいたしました。
以前よりももう少し詳しくなっておりますので、よろしければ2回目の方もご覧くださいm(__)m
当店の先祖「源淡斎=みなもとのたんさい」と
「佐々木愚山=ささきぐざん」は
2代に渡って榛名神社の神主を務めてまいりました。
「私たちはずっと神のために生きてきました」
当店のスタッフもまた、神社の神主です。
もし、あなた様が神々に愛される方法や
神様との会話を垣間見たいなら
たった1つだけ約束してほしいことがあります。
それは、、
勇気があるお方。
日常の裏側で起きているありのままの出来事は
人間にとっては恐ろしかったり
不都合で、不可思議で、信じがたいことしかありません。
そのため我々は、非難されることよりも
人目を避けてひっそりと生きることを選択してきました。
この物語に装飾は加えられていません。
あなた様が私達の見ているものを知りたいのなら、今一度、問いかけます。
本当に興味がある方だけ御覧ください。
ここから先は私達の領域。
もう1つの現実です。
これは酉の市で出会った
「小さなおじいさんの神様のお話です」
酉の市には色々な熊手があり
種類や大きさは様々です
多くは商売繁盛を願って経営者や役者さんなどが名を連ねます
そして実は熊手にも光るものがあり、時に何かが一緒についていることがあります。
当店は飾りや値段を見ているのではなく、それを見て買い入れています。
きっと世の中には他にも見える方がいらっしゃると思いますので、特別騒ぎ立てるようなことではないと思いますが、それは小さな大黒様のような姿をしていたり、またはお姫様のような姿をしていたりと多様です。
しかし、申し上げられますのは、そういったものは数千個に1個という確率でしかお目にかかれないということです。
そして面白いことにいつも同じ会社の売約済みの熊手に小さな神様がついていたりします。
これは、その会社にいる神様で、酉の市にいらっしゃる神様ではないと思います。
中には変なものも憑いているのですが、それはなんだか申し訳ないのですがちょっと良くなかったりします。
おそらくそれを買い入れますと、不吉なことが起こるのでしょうが、アドバイスもできませんので申し訳ない気持ちで通り過ぎます。
去年の酉の市では、1つ光っているものを見つけたため早速買い入れて飾ったところ、それが小さなおじいさんの神様だとわかりました。
『おじいさんだ』
おじいさんにはあごひげがあり、白い着物を着ていて、髪の毛をつむじのところで結び、ちょこんと前に倒しています。
それは時代劇の町医者のような髪型でした。
当店は色々と聞いてみることにいたしました。
「おじいさん。お名前は?」
『人間だった頃の名は遠野松次郎。生まれは武蔵國』
※言葉は古語のため翻訳しています
「そうでしたか。いつの時代の方です?」
『天子様の名は知らぬが、慶喜様の時代だ。
もう百年も修行をしている』
「どうしてあそこにいたのです?」
『修行の1つだ。神社神様にお願いをして居させていただくのだ。
あそこにたどり着くには、なかなか苦労がいる。
去年も居たのだが、誰も目をつけなかった。
だから今年もあそこに居ただけのこと』
「そうでしたか。修行とおっしゃいましたね?」
『私が生きていた頃は、実家は庄屋をやっていた。
金に困ったことは無かったけれど、妹が死に、母が父が死に、全てがどうでも良くなってしまった。
それで旅をしていたけれど、とうとう行き倒れになった。
その時、そばにいらした神様にお願いをしたのだ。
修行をさせてほしいと、何度も何度も頼み込んだ』
「ご苦労なさいましたか…」
『それより以前は平安の時代の生まれであった』
「今は、ここでゆっくりしていってください」
こうして私達の暮らしははじまりました
毎日、お水とお酒をかえて、食事を置くととてもうれしそうな声が聞こえてきます。
『わたくしぇもうぇてしがな』原文ママ
※私にもください
『いとぅうまくぁかりけり』原文ママ
※うまいです
おじいさんは平安時代の言葉の名残のほうが強いため、とても聞き取りにくく難しい発音をしています。
『コトノハうぇ大陸より伝わりふぃもの』原文ママ
※言葉は大陸(中国)から伝わったものだ。
『あおいうえおの五音からなるものではない。
大陸の言葉と同じく、書きものも難しい書き方もある。
今の世の人には分からぬはずだ。
江戸になるまではこのような言葉だった。
平安の時代は公家とたいとうしてきた藤原の一族の時代ゆえ、そういう言葉が多かった。
平民も同じような言葉を話していたようだが、平安から鎌倉まで続き、戦国時代になって武士の言葉が出来た。』
「ええ。古い神は大陸のような話し方をします。
神社の多くが平安の時代につくられたからでしょう。
人間が知らないあの大戦にそなえて、スサノオノミコト様が人に变化し各地に神社をつくるように命じました。
それがちょうど平安の時代でした。
最も魍魎共が栄えた時です」
『のどが渇いた、、、』
「これを飲みますか?コーラというものです」
『いいや、それは毒のにおいがする』
「…」
ある日のおじいさんは
何やら書き物をしていました
「何をしているのですか?」
『今はシュンジュン??(聞きとれませんでした)から論語になったところだ。
漢字は大陸(中国)からきたものだから、修行のために書いているのだ。
人間すべからく、四書五経をそらんじなければいけぬ』
「四書?」
『四書五経とはシュンジュン時代に書いた書物だ。
四書とはすなわち論語・中庸・大学・孟子。五経とはすなわち易経・詩経・礼経・春秋・書経をそらんじ、覚えていなければならぬ。
愚か者。邪魔するでない』
「…」
またある日のこと
私は足に怪我をしてしまいました
歩けないくらい膝を痛めてしまって、しばらく横になっていると、頭だけが大きい翁のような顔をしたおじいさんが膝にひっついていました。
「わっ」
『治しておる』
「…どなたです」
『私の名前はカカ。唐の時代に医者だった。
お前のところの神に頼まれたのだ』
「そうでしたか。ありがとう」
『前よりひどくなっておる』
「電気をあてたのです。あ、エレキテルです。稲妻です」
『なぜそんなことをするのだ。
よくなっていたのに』
「すみません…」
それから半日くらいでとても良くなったのですが、いつの間にかカカと名乗ったおじいさんは消えていました。
そうして約1年後―。
少し前から当店のおじいさんは元気がなく、時々泣いていました。
「もうすぐお別れですね」
『一の酉の時にかえしておくれ』
「どうしてですか」
『天界の神との約束なのだ。必ず一の酉に帰るという約束事なのだ』
「もう逢えないのですか」
『もう逢えぬ』
「次はどこへ行くのです」
『私にもわからぬが、まずは天神(あまつがみ)のもとに行く。
あなた様の故郷です』
「ええ。寂しくなります」
『人間は勝手に伊勢と出雲が仲が悪いと言っておるが、両神ともにイザナギノミコトより生まれし子孫。
子孫同士で仲が悪いはずもなかろうに。
日本古来の地図で伊勢神宮と出雲大社は一本の線で結ばれる直線上にある。
伊勢神宮は陽で生の神。
出雲は陰で死を司る神。
それは表裏一体。
出雲の神はスサノオノミコトの子であるオオクニヌシノミコト。
伊勢神宮はアマテラスオオミカミ。ふたりともイザナギのミコトがつくりあげたもの。
だから陽と陰も私はいかねばならぬ。
多くの魂はまず、東である伊勢神宮の神様にお願いして、死を受け入れてもらう。
古来から高平原(この大地)に生まれたものはそういうふうになっておる』
「人間に言葉をかけてやってください。
今は心の病に苦しむ人が多くいます。
どう生きればよいのか。神とは何かを話してください。
あなたが確かにここに居たという証として」
『神とは人間をつくりたもうたもの。精神、魂のより所。
生と死は隣り合わせにあるので、死をおそれぬこと。
陰と陽。生と死。生きている時は苦しくても天が思し召すままに、生をむさぼること。
現世の気鬱の病はわしには分からぬ。
古来からそういうものがおったとしても、周りの人間が助けてくれた。
周りの人間との関わりが今は少ないように思う。
今生は短い。生をむさぼりなされ、あがきなされ。
それがわしの最後の言葉といたす』
こうしておじいさんは最後の3日間を無言と断食の行で過ごしました。
いよいよ今年はじめの酉の市の日が来てしまって
熊手をおかえしにあがると
おじいさんは、すーっと天に昇って行きました。
最後にこう言いながら。
原文のままお聞きください。
『ひととせ こころよし ひとかたならぬ かたじけなし』
※1年の間 とても楽しかった。ありがとう。
また1つ。
いつも人知れず、こうして出会いと別れを繰り返すだけ。
真実は小説よりもずっと悲しくて、人が想像できる物語よりも奇妙なもの。
空いてしまった神棚に、今度はどんな熊手がやってくるのかと、心静かに新しい出会いを待つばかりです。
だからほら。
『拙僧、円行と申すもの。
ひととせ いかい 世話になり申しまする』
この物語の続きはまたいつか。